ノーパンで丸一日過ごしてみて分かったこと
おや、パンツがない
出かける30分前くらいにぼくはそれに気づいた。
どうやら、手持ちのパンツを全て洗濯してしまっているらしい。
そしてさきほど風呂に入って脱ぎたてのラスト・パンツも、もう稼動中の洗濯機の中である。
もう時間もあまりない。
そんな状況でぼくは、近くのコンビニに買いに行くでもなくノーパンで過ごしてやろう、という結論に割とスムーズに至った。
むしろ高揚感さえあった。
もしかするとぼくは変態なのかもしれない。
履いているのはぼくの一張羅といっても過言ではない、自慢のダメージジーンズだ。
いざ、外界へ繰り出す
おぉ、いつもより確かにスースーする。これは確かな手応えだ。
これから先輩と六本木で飲み会なのである。
ぼくにはひとつだけ危惧していることがあった。
それは、お調子者の友人や近所で変人と噂のおじいさんなどに、
「うぇーい!!」と言いながらズボンを降ろされることだ。
もしそんなことがあれば、履いていないという確かな事実が世間の公となり、
それは光の速さでリツイートされていくことが必至だ。
だが、残念ながら、現実的にそんなことは0.01パーセントもないだろう。
その後も色々と妄想を掻き立てていたのだが、2〜3時間もするうちにぼくは履いていないということを忘れてしまった。
そちら側の世界に馴染んでしまったのだ。
はじめの1時間ほど感じていた、妙な背徳感もほとんど消え失せてしまった。
さきほど危惧していた、露出狂などという変態気質はぼくにはどうやらないようだ。
そして帰宅
ぼくは半ば落ち込みながら家に帰った。
だが、家に帰り、履いていなかったという紛うことなき事実がじわじわとこみ上げる。押し返してくるのだ。
ぼくはその時、確かに履いていなかった。
底知れぬ「やったった感」を感じながら、ジーンズの裏側にファブリーズをした。
そんなぼくのケツ論。
それは、やはりパンツはあったほうがいい、ということだ。
ズボンが汚れるなどという衛生面・機能面もさることながら、
やはり精神面の観点から、パンツというものは必要なのだ。
確かにパンツがこの世からなくなっても、人は生きていけるだろう。
だが、やはり人間の生み出したパンツという画期的発明は、人々に多大なる安心感を与えた。
「最悪、漏らしてもいい。」
これがどれだけ 人々の心を救ってきただろうか?
ありがとう、パンツ。パンツは永久に不潔 不滅です。
そして、洗濯は計画的に。
それでは、これからパンツパーティに参加してきます。